歴史的転換点の日本はどう生き残るか?


ロシアがウクライナ侵攻してから約半年がたった。
この間、世界は混迷の一途をたどっている。
そればかりか、次の紛争の発火点は台湾となり、今、世界中の目が台湾に注がれている。
台湾有事は起こるか起こらないかではなく、いつ起こるかの問題となっている。
「台湾有事は日本有事」と宣言した安倍元総理は凶弾に倒れた。

その最中、ペロシ米下院議長が8月2日に湾訪問し、それを契機に中国は台湾を包囲する形で軍事演習を行い、それが常態化する様相を見せている。
これに対して、米国は断固として台湾を守る姿勢を崩していない。
もし、中国が台湾へ対して軍事力行使を行った場合、米国は「ウクライナ型」の代理戦争を行う可能性が極めて高い。
その場合、日本はポーランドの役割を果たし世界中から集まった台湾への支援物資および武器の後方支援基地となり、日本は正念場に立たされる。

今から128年前の、1894年8月1日に朝鮮の支配権を巡り日本と清国とに戦争が勃発した。
日清戦争前夜、日本政府の中は、開戦の強硬論者と対清協調論者が激しい論争を繰り返していた。
出兵決定時点では協調論が伊藤首相の公式見解であったが、国内世論の圧力もあり開戦の方針に舵を切った。

時の総理大臣は伊藤博文、それに海軍大臣は西郷従道であった。
西郷従道は、1874年7年5月に遠征部隊を率い、台湾南部に侵攻して約一カ月で鎮圧した。
その後1885年に伊藤内閣が発足すると初代海軍大臣に就任し、近代海軍の拡張と整備に尽力した。
その後、陸軍からの転身でありながら初代海軍大将に任じられ日清戦争を指揮して闘い、見事に日本を勝利に導いた。
西郷従道は、西郷隆盛の弟である。

日清戦争の時、桂太郎(後の総理)は第3師団長として従軍した。
その後、1896年総台湾督となり南進策を構想。1898年1月より陸軍大臣を歴任、山県有朋の後継者と目され、軍政家より政治家に成長。
1901年6月に総理大臣に就任した。
そして1902年2月に日英同盟を結び、1907年には日露戦争で勝利を収め、日本を大国に押し上げた。

今、日本は米国とともに西側民主主義同盟の一員として、中国とロシアの権威主義同盟に対峙をしている。
日本は、再び歴史の転換点をどう切り抜けるか。
明治維新の建国の父の一人である新渡戸稲造は「武士道」で日本人の生き様を呈した。

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