私の一枚~日米関係の裏舞台「サンフランシスコ会議」~


私の一枚
日米関係の裏舞台「サンフランシスコ会議」
川上高司

「写真に写っているように、私の右手にキャンベル国務次官、左手にペリー元国防長官が座り、私の発言を興味深く聞いていた。
後ろにはまだCSISのリサーチャーだった小泉進次郎議員がYoung Leadersの一員として座っている。」

2008年3月、場所はサンフランシスコのマリオットホテル。
一年に一度開催される日米の両政府の実務家が集まるサンフランシスコ会議であった。
日米のジャパンハンドラーが全員集まり、その年の日米の政策のすり合わせを行う。

サンフランシスコ会議は、国際問題研究所とパシフィックフォーラムCSISとの共同開催で行われ、日米の「1.5トラックの会議」(官民会議)で毎年一度、日米関係の今後1年間の政策すり合わせを行っていた。
会議の主席者は、現在の日米関係を築きあげた立役者達が結集していた。
この年のアメリカからの出席者はペリー国防長官、アマコスト大使、アーミテージ国防次官補、ナイ ハーバード大学大学院学長達のジャパンハンドラー達。
日本側からは、鬼籍にはいられた、それに防衛省事務次官の鈴木敦夫、髙見澤將元軍縮大使らのベスト・アンド・ブライテストが一同に会した。
そのときの私に与えられたのは、核問題に関する発表であった。

時は、オバマ政権。オバマ大統領は 2009 年4月5日のプラハ演説で、「核のない世界」を発表しノーベル平和賞を受賞した。
オバマ大統領のプラハ演説は、ペリー元国防長官、シュルツ元国務長官、キッシンジャー元国務長官、ナン議員の「四賢人」の「核のない世界」への具体的な提言が下敷きとなっていた。
「四賢人」は2007 年1月4日と 2008 年1月 15 日のウォールストリート・ジャーナル紙に「核兵器のない世界を目指すべきである」との見解を提示していた。
「核報復の脅しによる抑止戦略はもはや時代遅れになり、核兵器に依存することは今や危険で非能率的になっている」と、最も保守的な核論者達が指摘したことは米国内だけではなく世界に衝撃を与えた。

その論議の背景には「核の役割」が変化したという認識があった。
冷戦時代の「核の役割」は、米ソ両国が「核による恐怖の均衡」(MAD体制)を維持することであった。
この米露間のMADシステムにより全面戦争は回避されてきたのである。

オバマ大統領は、核のない世界は「私の生きている間は実現されないだろう」と述べて「核のある世界」は当分の間は存続することを喚起した。
すなわちオバマは「核のない世界」と「核のある世界」の2つの世界があることを述べたのである。
「核のない世界」は目指すべき目標として掲げ、それを達成するべく具体的措置をとりながら、それまでの間、「核兵器のある世界」での確実な抑止を維持するというレトリックでオバマ大統領は核政策を展開する。
そして、四賢人のうちペリー元国防長官は、抑止力を維持するのを核政策を追求していた。

私の発表は、そのペリー国防長官に対して、新たに核保有をした北朝鮮からの核攻撃に対して、日本は拡大抑止をリアシュアー(再確保)するため「核シェア」をする必要性があることを訴えた。
それに対して、ペリー国防長官は、「もし、日本が核武装を望むのであれば可能だ」と答えた。
その後、ペリー国防長官は自分の電話番号を教えてくれた。
ただ、残念なことに、当時、日本では核論議は全く行われていず、論議は封印されてしまった。

サンフランシスコ会議では、サンフランシスコの領事が丘上の素晴らしい場所に立地する日本領事館でフェアウエルパーティーを領事が開催してくれた。
アーミテージ国防次官補が、アーミテージ・ナイ・レポートを発表した直後で、「日本からのカウンター・アーミテージレポートを期待する」と私に宿題を託した。
その解答は、東京財団からプロジェクトの一環として発表した。
今から、15年ほど前の話である。
その時に出席して、会議を賑あわせていた、岡本幸夫総理補佐官、中山俊宏慶応大学教授、伊奈久喜朝日新聞論説は鬼籍にはいられた。
彼らの努力があってこそ今の日米関係が存在する。

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